6-太陽の村

台湾東部のとある村に、今でもときおり日常生活で
日本語を用いる少数民族の老人達がいるという。
彼らはパイワン族という少数民族で、
もともとはインドネシア語族の言語を話し、
かつては首狩りも行っていたという。

日本統治前の台湾では、部族の異なる少数民族どうしが
山中でばったりでくわした場合、共通となる言語がなく、
殺し合いになることも多々あった。
しかし台湾が日本統治下に入ると、
日本はそうした少数民族の地にも踏み入り、
彼らに日本語の使用を強制した。
そうして少数民族間どうしの共通言語は日本語となり、
現在でも一部の老人が実際に使用しているという。

日本統治時代の台湾に、人並みならぬ感心がある私は
どうしてもこの老人達の住む太麻里という町に行って
老人達の話す日本語で、当事の話や、
少数民族の話を聞いてみたくなった。

ゲストハウスのお姉さんに太麻里までのアクセスを尋ねると
墾丁から枋寮という町に一度戻り、そこから列車で
太麻里を目指すとスムーズだと教えてくれた。

私がバスの運転手に見せるために、マジックで
行き先表示を書いているとゲストハウスのお姉さんは
それを見つけてじーっと眺めたと思うと
次の瞬間には大爆笑していた。

汽车到的时候告诉我。(枋寮に着いたら、教えてね)

何がそんなにおもしろいんだろうか。
もしかして私が中国語の丁寧表現であり、
英語のPleaseに当たる「请」という言葉を抜かして
書いたのがまずかったのだろうか。
もしかしたらお姉さんには、こんな感じに
見えているのかもしれない。

「枋寮に着いたら、教えろよ!」

私がバスの運転手なら舌打ちのひとつでもしていそうだが、
台湾の運転手は朗らかに笑って、分かった!さぁ乗った!と言った。
しかし私がいざ降りる頃には、彼の頭の中で
私の存在は完全に忘れ去られていたようで、
結局、自ら「降ろして!」と自己申請する羽目になった。

メモの意味、なくない?

そんな小さなトラブルこそあれど、
私は問題なく太麻里に着くことができた。
にしても日本なら本格的な冬が始まろうという
11月の終わりに、太麻里のなんと熱いこと!
熱帯気候の墾丁も熱かったのだが太麻里は
太陽がより近い気がする。日本の真夏のようである!

それもそのはずで「太麻里」という地名はパイワン族の言葉で
「太陽が照りつける肥沃な土地」という意味だそうである。
それも納得のこの暑さに、私のTシャツは
すぐに汗でびしょびしょになってしまった。

太麻里に着いたはいいが、困ったことに
少数民族の住む村までは地図もなければ、何も情報がない。
私は駅から500メートルくらい歩き
町で比較的賑わっている所まで出た。
そしてセブンイレブンに入り情報を集める事にした。

特大の杏仁豆腐をレジに差し出すついでに、レジの女性に
写真を見せて聞いてみたのだが、若く学生のような彼女は
少し考え、ごめんなさいと首を横に振った。

仕方ないので、セブンイレブンのベンチで杏仁豆腐を
がっついていると、おじさんの自転車乗り集団がやってきた。
私が写真を見せると、彼らは顔を見合わせてお前知ってるか?
とみんなに聞いてくれたのだが、みんな知らないという。

なんたることか!!!!!!


そんな村は存在しないのだろうか?
やはり今も日本語で話す台湾の少数民族の老人達など
存在しないのだろうか?

埒があかないので私はこの地に長く住んでいそうな
古い家を見つけて入ってみることにした。
ドアが開けっ放しの開放的な家に一歩足を踏み入れると
奥にちょうど寝るか寝ないかという、
人がおそらく一番気持ちいい時の顔をしたおばさんがいた。

私はおばさんを起こしてはならないと思い、
一歩家に踏み入れた足を180度回転し外に向けなおし
去ろうとしたら、おばさんは私に気づき起き上がった。

私は、起こしてごめんなさい!と謝り
起こしたついでに、少数民族の村の場所を尋ねた。
おばさんは、おもむろに眼鏡をかけ私の写真を見ると
遠いわよ!歩いていくの?と言った。

やっと少数民族の村を知っている人がいた!

私が歩いていくというと、あれまぁ〜という顔をし
机の上にあった紙で地図を描いてくれた。
おばさんにお礼を言い、言われた通りに歩くとすぐに看板を見つけた。

新興村?先住民の村なのに、新しく興った村?
疑問は残るがどうやらこれが先住民族の住む村らしい。

なにもない山道を20分歩いても、看板一つない。
山道には畑や農具を入れるような建物があるものの人影はない。
ときおり原付に乗った人が爆音を響かせ通る程度である。

このまま終わったら太麻里での収穫は全くなくなってまうなぁ・・
私の太麻里での滞在は次の電車がやってくるまでの
1時間と少ししかないのだ。
私が諦めモードで歩いているとやがて、奇妙な像が見えてきた!

これだ!間違いない!
さらに奥に進むと、私がガイドブックで見た写真を見つけた。
ガイドブックではこの石碑の前で少数民族のおじさんが
民族衣装を着て写真に写っていたのだ。

石碑にはカタカナで「チャコラボガンベ」と書かれてある。
この村で日本語が根付いていた動かぬ証拠である!
この村の老人は今も日本語を話すのだろうか?

私は期待をこめて村に唯一と思われるスーパーに入った。
そこでは、店のおばさんが近所のおばさんと談笑していた。
その小規模なスーパーで外者の私は明らかに浮いていた。

私はコーラを手にとり、レジに向かった。
おばさんは10元(25円)と中国語で言い私は10元払った。
都会のコーラの三分の一の値段である。
私は思い切っておばさんに聞いてみた。

この辺りに、日本語を話す老人はいませんか?

少し台湾人より濃い顔のおばさん達二人は、
そんな老人いるかしら・・とお互い目をあわせた。
戦争が終わってからだいぶ経っている。
仮に健在でもかなり高齢のはずである。
小さい村だから、いたとしたらすぐ分かるだろう。
ということは、もう日本語を話す少数民族の老人は
この村にいないのだろうか。

私はありがとうと言い肩を落としてスーパーを出た。
低い石垣に腰かけ買ったばかりのコーラを一気飲みすると
それはすぐに汗に変わり、シャツはさらに湿った。

もう少し歩いてみよう。私は再び歩きだした。

町並みはいたって普通であるが、いたるかしこにある
モニュメントや何かの儀式に使う建物は
他の村では見られない特別なものだ。


こうした建物は何かの儀式やイベントがある度に
村人によって使用されるのだろう。
普段から日常的に使用されているという形跡はなかった。

しばらく歩いていると、もう自分が
どこにいるのかも分からなくなってきた。
どこが北でどこが南で私はどこから来たんだろう?
まずいなぁと思っていると少し先に墓が見えた。

パイワン族の墓かぁ。
墓というのは国や文化によって様々である。
なかなか興味深いので恐る恐る入ってみることにした。

入ってみて驚いた。墓石には、はっきりとカタカナで
名前にふりがながふってあったのだ。
不謹慎だと思いながらも私は墓にレンズを向けた。

墓の上部には、太陽のようなものが描かれている。
さらに墓の奥には人が一人横たわって入れそうな
スペースが設けられていた。

おそらく死者は日本のように火葬されることなく、
死んだそのままの姿でここに葬られるのだろう。
私は手をあわせ墓を出ることにした。

日本人がパイワン族の住む地にやってきてカタカナを広めた
という痕跡は見つけたものの日本語を話す老人と
会話をしたいという当初の目的はいまだ達成していない。

やはり日本語を話すパイワン族の老人などいないのだろうか。

私は出発の時間がせまってきたこともあり、
もうこの村を去る事にした。

するとどこからともなく、
日本語のような声が聞こえてきた。
どうやら近くにいる老人二人が話しているようだ。
私は近寄り耳を澄ましてみた。



しかし、それは音こそ似ているものの
パイワン族の話すパイワン語だった。


やっぱり・・。


私は肩を落としてパイワン族の集落を後にした。
集落の入り口に来た私は犬3匹に吠えられた。
どうやらよそ者を探知したらしい。

私は明らかに猛スピードで近づいてくる
犬にびびりながらも、ふと近くの門を見た。

なにかに似ている・・。

私は、はっとした!
門を閉じた状態が日本の軍旗とそっくりなのだ!

それが太麻里のもともとの意味である
パイワン語の「太陽が照りつける肥沃な土地」から
インスピレーションを受けて作られたものなのか、
日本帝国陸軍が作ったものなのかはわからない。

しかし確かなのは、かつて日本軍が
このパイワン族の集落まで踏み入り
彼らに日本語の使用を強制したという事実である。
だからこそ、村のあちらこちらで
現在もカタカナが使用されているのである。

今回のパイワン族の集落への旅では
日本語を話す老人を見つけることができず、
どうしてパイワン族の集落で、ひらがなではなく
カタカナだけが広まったのか、
日本軍がどのように日本語を強制したのか等の
貴重な話はついに聞くことができなかった。

このもやもやは、いつかまた再訪し詳しく調べたいと思う。