終-太鼓とコイン

十分という村で天燈を飛ばした私達は
次に九份という台湾の人気観光地へ向かった。
十の次は九というわけだ。

九份は日本統治時代に金の採掘で繁栄した村で、
その後も『悲情城市』というニ・ニ八事件を扱った
映画でロケ地に選ばれ再び人気となった。

そんな歴史など知るはずもない彼女は金魚のように口をパクパクさせ
「私は红豆汤(台湾のお汁粉)が食べたい!」とぶつぶついっている。
まったく胃袋に足と手が生えたような女である。

まぁ、それにしてもなんと観光客の多いこと!
往時を偲ぶ遠い目なんかで歩いていると、
観光客とぶつかり歩けたもんではない。

通りの左右は観光客を相手にした土産物屋でぎっしり埋まっており、
それがかなり先まで続いている。
少し立ち止まって店の商品を見ようものなら
すさまじいセールスを受けるので、
本当に買う気がないと店の商品も見られない。

私達が通りの店に誘惑されながらも
しばらく進んでいくと、次第に太鼓の音が聞こえてきた。
どうやら近くの施設で太鼓の発表会をやっているようだ。
会場の扉は開いており、特に見学料も必要ないようだ。

おそるおそる入って行くと壇上では
小学生から中学生くらいまでの子ども達が
一生懸命、日本の和太鼓にそっくりな太鼓をたたいていた。

椅子に座っているのは客と保護者だろう。
演奏が終わる度に、会場中に拍手がなり響く。
わが子の演奏の後にはアンコールまでしている。ノリノリだ!

彼らはみんなが決まったリズムで一斉に叩くこともあれば
それぞれがソロで会場中の注目を浴びる中、
自分が好きなリズムを叩くこともあった。

自分の得意なリズムで一生懸命バチを振るう子ども達を見ていると
私はいつしか彼らの両親の気分となり
よく練習がんばったんだね・・と感動すらしていた。
彼女も同じ気持ちなのか、静かに聞き入っては
演奏が終わると熱心に拍手をしていた。

胃袋も一応、感動はするようだ。

どれだけ見ていただろうか。

私達は結局、最後のアンコールまで見て、
割れんばかりの拍手が鳴り止まない会場をあとにした。
会場を出た彼女は私にこういった。

「わたし前から太鼓やりたかってん!」

うーむ。初耳である!全くの初耳である!
この胃袋は本気で言っているのだろうか。
それとも一時的に感動して、興奮のあまり
変な事を口走っているんだろうか。
まぁいい。この胃袋はしばらくそっとしておこう。

私はというと、太鼓にも感動したのだが、
ふらっと入ったみやげ物屋で偶然見つけた古銭に夢中になっていた。
そこには清や台湾の古い硬貨や貿易銀などが置かれてあった。
数百年前に実際に活躍していたコインと思うだけで
東アジアの近代史に関心のある私にはたまらない!
この硬貨はそうした歴史の目撃者なのだ!と
思うと胸のドキドキが止まらない。
この硬貨をどんな人が持ち、その人はどんな時代を生き、
どういう経緯でこのコインはここに並んでいるんだろうと
考えただけで私の夢はふくらんでゆく。

胃袋はそんな私を見て呆れていた。
早くお汁粉を食わせろというオーラが全面に出ていた。
しかし、歴史に魅了された私にとって
お汁粉なんぞ知ったことではない。

私はコインを眺めうっとりしていた。
このコインを西太后も使ったのだろうか。
このコインを蒋介石も、いや張学良も・・・!
嗚呼!!私はまさに歴史と一体となっていた。

そしてふんだんに悩んだあげく、私は二枚の硬貨を買った。
一枚は日本もかつて貿易で使ったと思われる「貿易銀」である。

そしてもう一つは愛新覚羅 溥儀の描かれた大清国のコインである!

私はお汁粉を飲みながらもコインばかり眺めていた。
あの溥儀やで!と言っても胃袋はポカーンとしている。

お汁粉の飲みたかった彼女はお汁粉のトッピングに
おたまじゃくしの卵のようなものを入れて!と
お願いしたところ、うまく伝わらなかったのか
お汁粉とはまったく違う液体にそのおたまじゃくしの卵の
ようなものを入れられて結局、お汁粉が飲めずがっかりしていた。

お汁粉にさほど興味のない私は普通にお汁粉を頼んで
普通にお汁粉を飲んで、哀れな女を横見に満面の笑みで
お汁粉を飲んでやった。

溥儀と飲むお汁粉はこれまた格別であった。

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私と彼女は台湾での短い滞在期間中、
ブログで書いた以外にも数多くの場所に訪れた。
温泉や寺、ナイトマーケット、台北北端の淡水にも行った。


台湾で2番目においしいと評判の小籠包の店に行っては、
そのおいしさに感激した。

泊まったゲストハウス牡丹居でのもてなしも素晴らしかった。
毎朝、おばさんが朝食時に謎のフルーツを切り分けてくれた。
お勧めのゲストハウスだ。→http://www.mudanhouse.com/

台北は十分に観光開発がされており、
観光がとてもスムーズに運び、当の本人は楽しいものの
それを文にしておもしろいようなトラブルや出来事も
起こりにくいので、ここではそれらの話は割愛します。

よって、台湾のブログはここでおしまいです。
台湾は、夏以外は過ごし易く、公共交通機関も便利です。
人も優しく、特に日本人の私達には、とても親切にしてくれました。
そして、歴史的なこともあり、日本と文化も近いです。
私が大好きな海も身近にあり、南にはリゾート地までありました。
食に関しても、日本人に比較的近い味覚をもっています。
米も戦時中に日本人の口に合うように品種改良された
米を使っているので、日本の米のようです。
実際、私は食べ比べしても分からないでしょう!

逆に悪いところを思い浮かべるほうが難しいくらいです。
強いて言えば、一度、豆花という台湾スイーツを食べに行った時に、
汚れた格好をして掃除をしていた店員のおばさんが
めんどくさそうにオーダーを受け、用意してくれた
スイーツに蚊が入っていて、気分を害したくらいです。

蚊が入っている事を指摘すると、めんどくさそうにもう一杯
作ろうとしてましたが、私はどうもその汚いおばさんの
スイーツを食べる気になれず、店を出ました。

そんなこともありましたが、私はすっかり台湾が好きになりました。
今の気持ちを一言簡潔に述べるとこんな感じです。







台湾に住みたいわん!






はい、私は台湾に住みたいです。
いつか日本語教師として台湾に移り住み、
台湾での生活に慣れたら、日本の家庭料理を扱うレストランを
オープンさせたいというのが今の野望です。
料理は日ごろからよく作るものの、全てが自己流なので
一度基礎から勉強しなおすつもりです。
その際は皆様のご来店を心よりお待ちしております。



では、その時まで。再见!



タワポン渡辺
http://tawapon.web.fc2.com/

12-天燈は飛んでゆく

私は台湾に来る前、彼女に一本の映画を勧めていた。
その映画は台湾の人気若手俳優チェン・ボーリン主演の
『台北に舞う雪』という映画である。

おもしろいから勧めたのではない。
結局、最後まで映画を通して
何がいいたいのかが分からないばかりではなく
三日後にはストーリーすら思い出せない有様だった。
しかし映画に出てくるレトロな建物や
映画全編に流れる雰囲気はとても美しかった。

果たして、ここはどこだろう?
私は気になりすぐさまキーボードをたたいた。
そしてロケ地はすぐに見つかった。
どうやらそこは菁桐(チントン)という場所らしい。

チントン!!

なんだろう!この可愛い響きは!
タワポンくらい可愛い響きである!
私は直感でここに行こうと思った。
台北からも電車で一時間半ほどである。
幸い、台湾の定番観光地である九份にも鉄道ですぐだ。
ここに行ってから九份を巡るコースも悪くないだろう。

しかしきっと台湾が初めての彼女が行きたいのは
台湾の「定番」観光地なのではないだろうか。
チントンのような小さな村に興味を持ってくれるのだろうか?
まぁ、私のプレゼン次第だろうなぁ・・。
そう思い映画の話も兼ねてしてみると、彼女はこういった。

私もガイドブック見てそこに行きたかった!

ほんまかいな!である。
彼女に台湾で行きたい所ある?と聞いても
チントンの「チ」の字もでなかったというのに
私がチントンに行きたいというと、
彼女も急にチントンに行きたかったと言い出したのだ。

だいたいガイドブックは台湾の有名観光地で
そのほとんどが占められておりチントンの特集など
一ページにも満たないはずだ。
一体どこでチントンを見つけ、
チントンのどこに興味を持ったというのだろう。

全く、「昭和の女」改め「ほんまかいな女」である。
まぁいい。とにかく私たちはこうしてチントンに行く事になった。

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チントン行きの列車の中から外を眺めるとあいにくの雨。
私が台湾に来てから一週間、雨が降る事はなかったが
彼女が台湾にやってきた翌日、雨が降った。
ほんまかいな女は雨女でもあるらしい。

列車内には同じくチントンに行くらしい小学生くらいの少女が
カメラを肩にかけた写真好きなお父さんと一緒に乗っていた。
少女は少女の隣に座っていた知らないおばぁちゃん達二人と
照れながら記念撮影をしていてなんとも楽しそうである。

しとしとと雨が降る中、少女の楽しそうな声だけが列車に響いた。

台湾では日本人の失いかけている人との絆が
まだ残っているのだろうか。

やがて列車はチントンに着いた。
雨が降る中、私達はスーパーで買った
黄色いレインコートに身を包み探索にでかけた。

映画では大きな橋が何度も登場したのだが、
実際のチントンに映画で見た橋はなかった。

映画の雰囲気が偲ばれる物は、駅周辺に少しあるだけで、
お土産屋があることを除けば普通の田舎の駅という感じだった。

雨が降っていたこともあり、深く探検しようという気も起こらず
私達は一時間もしないうちにチントンを後にした。
どうやら他の人達も同じように感じていたようで、
列車の中の顔ぶれは行きも帰りも、だいたい同じだった。

チントンの次は列車で数駅の「十分」という
これまた小さな村に向かった。
電車で十分なのではなく、村の名前が十分なのである。念のため!
ここは天燈と呼ばれるランタンが有名な村で
その大きなランタンに願い事を書き、火をつけ空に放すのだ。
その様子は台湾のドラマや映画なんかでよく見ることができる。


そもそも天燈とは、辺鄙な村に住む住人が
遠くに住む家族や知り合いに自分の無事を知らせる
ために飛ばしたのが始まりといわれている。
私は台湾滞在中にどうしてもこの天燈に願いを書いて
空に飛ばしてみたかったのだ。

線路沿いに沿って少し歩くと、天燈を売る店はすぐに見つかった。
さぁ、どれにする?色とりどりの天燈の前で
店のお姉さんが聞いてくる。
私達はどこか台湾らしい色を選んだ。

ここに願いを書くのよ。
お姉さんはそういい私達に習字で使うのよりは
少し大きい筆と、墨汁を渡した。
私はすぐに、『日本加油(日本がんばれ!)』と書いた。

もちろん東日本大震災の復興への願いを込めてである。

さぁ飛ばそう!と思ったが、
お姉さんは四方全てに願いを書けという。
そんなにたくさん願いはないアルよ・・。
まぁ仕方ないので、とりあえずこう書いた。

『彼女が太りませんように・・・』

というのも彼女は太りやすい体質で、私は太りにくい体質なのだ。
例え彼女が私と同じ物を私のよりかなり量を減らして
食べても私は太らず、彼女は太るのだ。なんという不条理!

あなたも何か書いたら?
店のお姉さんは彼女にも願いを書くように言った。
えーどうしよう・・と困っていた彼女だが
しばらくして筆を動かし始めた。えーなになに・・

『彼が太りますように・・・』

えー!!?!!!??!?!?!?!?!?!
自分が太っていて私が痩せていたら、
自分が太っているのが強調されるもんだから、
お前も太れ!という何とも消極的な願いである!
大学受験の時にライバル全員が試験直前に
食中毒になれ!と神頼みしていた私といい勝負である!
まったくとんでもない女である!!

お姉さんは私達を表の線路上に出るよう促した。
ここの鉄道は一時間に一本程のローカル線のため、
線路の上で飛ばすのだという。

私の日本復興に対する一途でひたむきな思いと、
彼女の消極的で自分勝手な願いを乗せた天燈には
間もなく火が灯された。

さぁ、あなたのカメラを貸して!
お姉さんはそういい私のカメラを取り上げた。
私達が天燈を飛ばすところを写真に撮ってくれるという。

しかし私は気が気でなかった。
天燈が飛ぶかどうより、外は雨が降っているではないか。
カメラが濡れるではないかと・・。
しかもお姉さん、あの・・・お姉さんの手は墨汁で真っ黒ですよね!!


はぁ・・レンズが・・!!


そんな私の心配をよそにお姉さんは着々と準備を進める。
さぁ天燈をしっかり持って張ってちょうだい!


はぁ・・レンズが・・!!


さぁ行くわよ!1、2、3で離すのよ!1、2、3!!


はぁ・・レンズが・・!!

天燈は勢いよく飛んだ。

日本の復興と、彼女が太らないでという希望を乗せて。

私は正直言ってレンズのことしか考えていなかった。
お願いだからレンズが汚れていませんように・・。

願いが叶ったのだろうか。
レンズは何の心配もなかった。
墨汁もついていなかった。

あとは、彼女が変な願いをお願いしたので
台湾太りにだけは気をつけて旅を続けたいと思う。

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台北に舞う雪

景色は美しいが内容はお勧めしない。
http://taipei-snow.jp/main.php

11-昭和の女がやって来た

私の台湾旅行も7日目に入り、
とうとう彼女が日本から合流する日が来た。
私は彼女を空港まで迎えに行かないつもりでいた。
というのも空港から市内までは空港からのバスで一本だし、
適当な所で降りれば地下鉄も通っている。
いくらどんくさい彼女でも、なんとかなると思ったのだ。

しかし待てよと。
私も初めて台湾に来た時は、見慣れぬ漢字ばかりの街に
少なからず不安を抱いたものだ。

迎えには行かないと宣言しつつ、
黙って行ってやるのが昭和に生まれた男ではないのか。

そう考えた私は、ゲストハウスをチェックアウトし、
時間に余裕を持って、空港バスの出ている台北駅に向かった。
私がバス停に着いた頃、ちょうど空港行きのバスは
発車した後らしく、私は30分も待つはめになった。
哎呀!このままでは、彼女の飛行機と、
私のバスは同じ時間に空港到着予定である・・。

しかも彼女は私が空港に来る事など知らない。
当然会う場所など決めていない。
携帯も海外で使う設定をしていないので通じないし、
会えない場合、かなりややこしい。

私の不安をよそにバスは定刻どおり空港に到着した。
ん?辺りを見渡し私は異変に気づいた。
バスは空港に着いたというのに
降りる人と、降りない人がいるのだ。
全くどういうことだ?私は降りたほうがいいのだろうか。
それとも・・・。

運転手にその訳を聞いてみると、ここはターミナル1で
次はターミナル2に行くという。そして君はどっちだと。

なんたること!!!

そんな事知らぬ。存ぜぬ。
私はターミナル1とターミナル2が近いことだけを
運転手に確認して、ターミナル1で降りてみた。
もはや賭けである。

そして、すぐにバスの外にいた空港職員を捕まえ、
大阪-台北間の飛行機はターミナル1ですか?と聞くと、
彼は斜め45度をしばらく見て、そうだという。
一安心した私は、待合のロビーに向かった。
そこには、ネームプレートを手にした人が
大勢いて、多くの旅行者を待ち構えていた。
私も用意していた彼女の名前がローマ字で書かれた
ネームプレートを取り出し、彼女を待つことにした。

しかし到着時間を30分過ぎても誰も来ない。
入国審査を通ってもそんなに時間がかかるだろうか。
到着予定の飛行機を表示する電光掲示板にも
OSAKAの5文字はない。
何かおかしい。だいたい、ここは私が台北に着いた時
降り立った待合ロビーでもない。

まずい。どうやらここではないようだ。
着いているとしたら、彼女の飛行機はもうとっくに着いているはずだ。
私は搭乗口に向かって走り出した。
そこには飛行機に詳しい地上スタッフがたくさんいるはずだった。

襟元にスカーフを綺麗に巻いたお姉さんに
大阪からの飛行機について尋ねるとお姉さんはPCをいじくり
その飛行機は4時20分、台北着のものですね?と言う。
はい!まさにそれです!
私がそういうと彼女はスカーフをなびかせこう言った。

その飛行機はターミナル2です。

チーン・・・。
平成の男ならすぐに諦めて、
ママに泣きながら電話でもしていただろう。

しかし昭和の男は違う。
私はターミナル2に向けてすぐに走り出した。
小学生時代、陸上部で鍛えた自慢の足で!

ターミナル2まではモノレールのようなものに乗り
15分くらいで着いた。
まぎれもなく私が台湾に着いた時の待合ロビーである。
そこには多くの日本人観光客のツアー団体がいた。

私は一人の日本人を捕まえて、大阪からですか?
と聞くと、そうですという。間違いない!これだ!

しかし彼女はいない。
時計を見ると、もう飛行機が到着してから50分も過ぎていた。
空港にいた日本人もツアー客のみで、個人客はいない。
待っていても、仕方ないので
私はバスのチケットカウンターに向かった。
台北へのバスチケットを買うならここを一度は通るはずである。

私はバス会社のカウンターに行き、
ここに中国語を話せない日本人女性が来ませんでしたか?
ほっぺたが大福のような女なんですが、と聞いてみた。

そんな人いたかしら、おばさんはそう言った。
来たらすぐ分かるだろうから、おそらく来ていないのだろう。
バス会社はもう一つあったが、さすがの昭和の男も
意気消沈気味になり聞く元気をなくしていた。

もしかしてチケットを買って、
もう外でバスを待っているのだろうか。

私が外に出てみると、親子らしき2人と
少し離れた所に1人の女性がいた。
親子は違うとして、私はもう片方の女性を見てみた。
暖かい台北で季節はずれの革のジャケットを着ている。
どこかで見た色だ。そして大福のようなほっぺたをしている。

間違いない!!
それはまぎれもなく奴だった。

よかった・・・。
私が音を殺して近寄り、変質者のふりをして大声で襲いかかると
昭和の女は声もあげずに、ただただ顔だけで驚いていた。
どうやら人間は本当に驚くと声もでないらしい。

久しぶりの再会を喜び、私はようこそ台湾へ!と言った。
そして再び彼女を連れてバスのチケットカウンターに寄り
彼女と同じチケットを買うと、さっきのおばさんが
私たちを見つけ、見つかったのね!といい親指を立てた。
私もおばさんに親指を立てて返した。

まったく手のかかる女である。

10-二二八の悲劇

台北にニニ八和平公園という公園がある。
私は前回の台湾旅行でも、ここを訪れていたので、
もう訪れなくてもいいだろうと思っていたのだが、
初めて台湾総督府に行き、あまりの観光客の多さに
少し疲れたので近くにあったここに少し寄って
休憩でもしようかと、ふらっと公園に入ってみることにした。

その公園内では木々が生い茂り、鳥が好き勝手に歌を歌い
親子が楽しそうにシーソーなんかをしていた。
あぁ、のどかだなぁと思って近くの建物を見てみると
そこには、ニニ八記念館と書かれた建物があった。
そういえば、私は2年前もここに来たっけ。

懐かしいなぁ、そう思い建物の付近をふらりと歩いてみた。
いや、二回目だし、もう入らなくていいだろう。
正直そう思ったのだが、台湾を本当に知る上で
この記念館の意義は大きい。
聞くと最近リニューアルして新しくなったというし、
入場料も20元(50円)と安いし、昼まで2時間ほど
暇だったので、私はもう一度入ってみることにした。

中に入ると机の上にパンフレットが置いてあった。
英語、中国語、日本語のパンフレットである。
私が日本語のパンフレットを手に取ると、
一人のおじいさんが私のところにゆっくりと寄って来て
「日本からですか?」と流暢な日本語で言った。
日本語世代だというこのおじいさんは張 文隆さんといい
ここでボランティアガイドをしているという。

張さんは何か分からない事があったら、
なんでも私に聞いてください、
私はこの事件を経験した一人ですから、と静かに言った。
私は、はい、そうしますと答え中に入った。

おじいさんの言うこの事件とは
もちろん「ニニ八事件」のことである。
ニニ八事件と聞いても日本人の多くはよく知らないと思う。
台湾人ですら、事件が起こった1947年から
40年続いた戒厳令が解除される1987年以降もしばらくは
この事件について詳しく知ることはできなかった。
台湾近代史上の重大事件であるにも関わらず
台湾の教科書に載っていないのである。
この事件は語る事すらタブーだったのだ。

事件のあらましはこうだ。
1945年の日本の敗戦により日本は台湾から去った。
そして、統治者のいなくなった台湾の領有権を主張したのが、
蒋介石率いる大陸の南京国民政府である。
多くの台湾人にとって中国は祖国である。
よって多くの台湾人は喜んで祖国を迎えた。

しかし現実は違った。

大陸からやってきた外省人の兵隊はいたく腐敗していたのだ。
張さんは実際に兵隊を見たといい、こう証言した。
「彼らは腐敗していました。まるで敗走兵のようでした。
汚い服を着て、だらだらと歩きました。
金を盗むし、女を見つけたら乱暴します。
彼らが持ってきたのは賄賂という文化だけですよ。」

日本時代に賄賂はありませんでしたか?
私がそう聞くと、張さんは答えた。
ありました。しかし、そこまでひどくはなかったです。

生活が改善されるとばかり期待していた台湾人は
これにひどく落胆した。
ただでさえギリギリの生活がさらに苦しくなるのである。
庶民は我慢の生活を続けたが、それも限界に近づいていた。
しかし政府は、そうした台湾人の感情を無視し、
追い討ちをかけるかのように砂糖・塩等の生活必需品や
大陸では自由に販売されているタバコ等の嗜好品を
政府の専売制にし、台湾からさらに利益を得ようとした。

そして事件は起こった。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを
密売していた林 江邁という中年女性が
専売局の役人に見つかり摘発されたのである。

土下座をし、許しを請う林を役人は銃剣の柄で殴り、
商品と所持金を没収した。

それを見て怒った台湾人の民衆は林に同情し、役人と衝突した。
すると焦った取締官は民衆に発砲し、たまたま居合わせた
陳 文渓を射殺し逃亡したのである。

この事件をきっかけに台湾人の怒りは爆発した。
彼らは台北の怒りを台湾全土に伝えるため、
ラジオ局を占拠し、日本語で「台湾人よ!立ち上がれ!」と
呼びかけたのである。

台北の怒りは瞬く間に全国に飛び火し、
全国で政府へのデモが起こった。
彼ら台湾人は日本語か台湾語のどちらかを話せるため、
そのどちらも話せない者を見つけると
外省人(中国人)であるとし、暴行した。

劣勢を知った行政長官 陳儀(ちんぎ)は
台湾人達と対話の姿勢を示した。
台湾人達は交渉担当者数人を用意し、
政府との対話に応じようとした。

しかし、それは陳儀の周到な計画だった。
陳儀は対話で解決を図るように見せかけ、時間稼ぎをし、
大陸の蒋介石に援軍を要請していたのである。

そして大陸からやってきた援軍により台湾人の
交渉担当者全員が殺されてしまう。
張さんは私の手をひき、これですよ、と像を指差した。
張さんによると、ニニ八記念館に入ってすぐにある銅像は
その交渉担当者達であるという。

彼らの殺戮はこれだけでは止まらなかった。
デモを引率した裁判官・医師・役人などの日本統治時代に
高等教育を受けたエリート層は次々と逮捕・投獄・拷問され、
その多くは殺害された。

張さんはその時どうしていましたか?
私は思い切って聞いてみた。
張さんはゆっくり口を開いた。

私も役人に捕まりました。
そして手と足に針金を刺されました。
分かりますか?何人もの人間の手や足に
針金を通してつなぐのです。
そしてトラックに載せられ海に連れて行かれました。
そうして順番で前の人から拳銃で撃たれました。
彼らは自分の重みで海に沈みます。
私は列の最後の一人でした。
私の前の人は拳銃で撃たれ海に倒れました。
私は前の人が撃たれ、海に倒れこんだとき
その重みで私も海に落ちました。
そして私は必死に逃げて、助かりました。
私はあの時、助かった、たった一人の人間です。

張さんの恐怖が目に浮かぶようである。
この事件により28000人もの台湾人が殺害されたといわれているが
正確な死者や行方不明者は現在も明らかになっていない。

私はひとつ疑問があった。
私はその疑問を張さんに聞いてみることにした。

台湾には蒋介石を祭った中正紀念堂があります。
とても多くの観光客が行きますよね?
でも蒋介石はニニ八事件で多くの台湾人を殺害しました。
多くの台湾人にとって蒋介石は悪者のはずです。
どうして蒋介石をいまだに祭っていますか?
それに対する張さんの答えはいたくシンプルだった。

それは国民党が勝手に作ったのですよ。

そうか。現政権も考えてみれば国民党だった。
私は色々親切に教えてくれて張さんにお礼を言って館内を出た。
小鳥達がのんきに鳴いているココこそ、60年以上前、
民衆が占拠したラジオ局の跡地であるという。
ここから政府に対するデモが台湾全土に広まったのである。
台湾がアジアでも有数の民主国家となった裏では
とてつもなく多くの人の血が流れているのである。
そう考えると、さっきまでの、のどかなこの公園が
どこか、とても尊いものに見えてきた。

私は手をあわせて公園を出た。
その傍で、小鳥達はいつまでも、いつまでも鳴いていた。

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台北ニニ八記念館

住所:台北市凱達格蘭大道3号
詳細は以下のサイトに詳しい
http://www.taipeinavi.com/miru/34/

9-フランス人キレル

私は台湾を一周し、鈍行列車に乗り再び台北に戻ってきた。

いつもは、西門町の台北バックパッカーズという安宿に
泊まるのだが、それではいつまで経っても進歩がないし、
あそこは道路に面しており朝方、うるさい!

そこで今回は港で噂のSTAR HOSTELという
比較的新しいゲストハウスに行ってみることにした。

ゲストハウスの入り口からなんとも洒落てはった。
STARと書かれた銀色のプレートが入り口に掲げられており
一見しただけではそれがゲストハウスだとは分からない。
東京かどっかの隠れ家的美容室のような感じである。
まぁそんな美容室には行ったことないのだが。

ゲストハウスは二階にあり、階段をあがると受付があった。
そこには台湾人の女性が椅子にちょこんと座っており
私に気づくとPCを叩いていた手を止め、流暢な英語で
こんにちはと微笑んだ。

チェックインを済ませお金を払うとすぐに部屋に案内してくれた。
部屋に案内される途中の壁面までも洒落たはる。

私のようなお洒落と程遠い人間にはどうも落ち着かない。
私にはどちらかというと、香港で有名な日本人宿である
ラッキーハウスのような時々、南京虫やゴキブリ、
ネズミがでますよくらいが丁度いい。

やがて相部屋に着いたようで、ドアに鍵をさしこみ回すと、
そこからは、むさくるしい獣の匂いがむっと漂ってきた。
例えるならば野球部の部室のような匂いである。
部屋には誰もおらず、脱ぎ散らかした服やバックパックで
相部屋は無残な状態になっていた。

この相部屋は男女混合らしいのだが、
私の部屋はあいにく男4人の相部屋だという事だ。

受付の女性は、その獣の香りを嗅いだ瞬間、
あら、ちらかってますね・・・。私はなんだか恐いわ・・・と言って
足早に部屋を去っていった。

私が以前台湾を旅したとき、ゲストハウスの相部屋には
決まって女性が一人はいたもんだ。
そして楽しく会話して、寝る頃には、
じゃあタワポンさんお休みなさい、電気を消してもいいかしら?
とかなんとかいって、異国の地で素敵な夜を過ごしたものだ。

でも今回の旅ではなぜか男ばかりの相部屋にまわされる。
なぜなんだ?これでは、お部屋というよりは汚部屋である!
前回の旅と今回の旅で一体何が違うというのだ!

私は真っ白なシーツの上に寝転び、
この上なくどうでもいいことをいたって真剣に考えた。
周りから見たらいかにも哲学的命題に挑んでいると
見えたかもしれない。



・
・
・
・
・
・
!



そして私は一つの回答にめぐりついた。
前回の旅と今回の旅で決定的に違うことといえば、

前回の旅では、ゲストハウスを予約せず直接出向いたのだが
今回の旅では予約をしてゲストハウスに出向いたのだ!

まだお分かりいただけていない人のためにもう少し説明すると
前もって予約をすると、予約をした男は、他の予約をした男と
男どうしで相部屋にされるのだ!

しかし予約をせずにいきなりゲストハウスに行くと
バックパッカーの多くが男のため、男ばかりの部屋は空いていない。
よって開いている男女混合や女性が多い部屋にまわされるのだ!

名づけて「ゲストハウス予約なしの法則」である。

遅すぎた法則の発見に枕を濡らしていると、
相部屋のドアに鍵を差し込む音がした。
ドアを開けたのは20代後半か30代前半の西洋人の男だった。
西洋人は老けてみえるから実際はもうちょっと若いかもしれない。
男はHi!といい、私もHi!と返した。

短い髪で、顔には少し疲れが見える彼はフランス人だそうで、
フランスなまりの英語を躊躇なく早口で話した。
それがアジア人の私には、たいそう聞き取りにくい。

君はどこから来たんだい?というもんだから
日本だよと答えると、彼はJAPAN・・と言い一瞬口ごもり
堰を切ったように早口の英語で話し出した。

アジアの物価は安いのに、日本だけは
なんだってあんなに物価が高いんだ!
あんなに物価が高くては旅行もろくにできないだろ!
日本はクレイジーなんだ!確かに文化は素晴らしいし、
日本は個人的に好きだが、物価はクレイジーだ!

でも韓国やシンガポール、香港、台湾も物価高いじゃん・・
私がそう反論すると彼はこういった。

韓国やシンガポールも物価は高いが、公共交通機関は安い!
でも日本は乗り物から食事から何から何まで高いんだ!
どうやって旅行しろというんだ!

なんだかゴメンなさい・・・。
私が無性に申し訳なくなって謝ると

NO!君が悪いんじゃないんだ。
でも日本の物価はクレイジーだ。そうだろ?

はぁ・・・おっしゃる通りでございます。

すると彼は突然話題を変え、二つの空きベットを指差し
ANYWAYと話し出した。

そこに二つの空きベッドがあるだろう?
そこには二人の男がいるんだが、
いつも帰ってくるのが遅くてな
深夜2時や3時に帰ってきては部屋の明かりをつけて
音をたてるんだ。こっちは寝ているのにだ!

彼はもう我慢ならんという表情である。
私が時計を見ると既に夜の11時。
彼はもう寝ようとしている。

うわぁ・・今から音たてずら〜。
私も、そんなに大きな音をたてるつもりはないが、
寝る前にたまった洗濯物を違う階にある
共同の洗濯機でどうしても洗いたかったのだ。

君も、もう寝るんだろう?

いや、それが洗濯物を洗う必要があって・・。

そうか。

うん、じゃあ、おやすみ・・。

OK、グッナイ。

私は極力気配を消して洗いたい洗濯物をまとめた。
部屋が真っ暗では洗濯から帰ったときに何も見えないだろうと思い、
私が私のベットの上の私専用のライトを
つけたまま洗濯に行こうとすると、
まだ寝てなかったフランス人が大声を出した。



電気を消せよ!



Oh,sorry.とりあえずそう言っておいたが、
自分のライトぐらいつけてもいいだろうに!

まったく神経質なフランス人である。
私が洗濯を終えて眠りについたのは夜12時だった。



どれだけ眠っただろうか。
私はふと目が覚めた。なんで目覚めたんだろう。
そう思い時計を見ると深夜の2時である。
なんでこんな時間に・・。

ん?それにしても、まぶしい・・。
なんなんだ・・・と思って上を見ると天井のライトがついている。
ま、まさか・・・部屋のライトをつけるという
噂の男が帰ってきたのか?!

確かにものスゴイ騒音というわけではないが
耳栓をしている私の耳にもカバンをごそごそする音が聞こえる。
これは間違いなさそうだ。

やばい・・・。
このままでは第三次世界大戦が勃発するぞ・・!!!


私が心配していると、事件はすぐに起こった。
フランス人のベッドが揺れている。
寝返りをうっている!まさか起きたんだろうか?

その予感は的中し、すぐにフランス人の怒鳴り声が部屋中に響いた。

電気を消せよ!今何時だと思っているんだ!俺達は寝てるんだ!カバンを置いてすぐ電気を消せ!

ん?俺達?WEですか?確かに私も寝てましたけど。。
私を世界大戦にまきこむおつもりでしょうか?
日本は参戦しませんよ。だって憲法9条がありますからね!!!!!

私はあくまで寝ているふりをして、
耳に全神経を集中して成り行きを見守っていた。
誰の血も飛ばないことを祈りつつ。

深夜にライトをつける男はどこか不満そうな感じだったが
しばらくして無言で電気を消した。

はぁ・・・。
最悪の危機は免れた。それにしても嫌な夜である。
私の胸の鼓動は激しいリズムを打ち、もう当分眠れそうもない。
私は電気が消えて暗くなった部屋で思った。

これだから男部屋は嫌なんだと。

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STAR HOSTEL(台湾)
http://www.yyisland.com/yy/tpe/item/3058

ラッキーゲストハウス(香港)
http://www.geocities.jp/vajrasatwa2007/index.htm

8-忘れられた鳥居

紅葉温泉旅社で一晩を過ごした私は
再び瑞穂のバス停に戻り、豊田村という小さな村を目指すことにした。

ガイドブックによるとこの豊田村には日本統治時代、
多くの日本人移民が移り住み、日本人移民村を形成していたという。
台湾における日本の面影を捜していた私は
この小さな村にどうしても行ってみたくなったのだ。

私が豊田村行きのバスを待っていると、
私と同じくバスを待つ老人が3人いた。
私がバス停の前にある軽食屋のおばさんと談笑していると
老人達3人は私の顔をまじまじと見始めた。
なんだろう・・・。老人3人にじっと見られていては照れるではないか。
しばらくしてずっと私を観察していた
おばぁさんの一人がゆっくりと口を開いた。


ニホンジン?


イントネーションが少しおかしいがしっかりした日本語だ。
私が「はい」と答えると、そのおばぁさんは、
ドコカラキタ?トウキョウ?ヨコハマ?と聞いてきた。
なぜ東京、大阪ではなく横浜なのか分からないが
私が、おそらくご存知ないでしょうがという前置きで
「兵庫」と答えると、おばぁさんはアァ、ソウとだけ短く答えた。
こういう時、私は自分の出身が知名度のある
東京なら楽だったのにと思う。

今度は私からおばぁさんに質問してみることにした。
「どこで日本語を習いましたか?」私はそう聞いてみたのだが、
おばぁさんは自分が年齢を聞かれたと勘違いしたのか、
ワタシハ、ナナジューロクヨ!とまくしたてるような強い語気で答えた。
反射的にお若いですね!と言おうと思ったが
見た感じ年相応だったのでやめた。

私はもう一度、「ど・こ・で」日本語を勉強しましたか?
と聞いてみたのだが、やはり意味が分からなかったのか、
おばぁさんは私を無視し、遠くを眺め始めた。
どうやら日本語の聴解はあまり得意ではないようだ。

しばらく遠くを眺めるおばぁさんと、
途切れ途切れに支離滅裂な会話を続けていると
軽食屋の階段に腰掛けて時折こちらの見ていたおじいさんが、
のそっと起き上がり私の前にすたすたと歩いてきた。
そして、まだ光を放つその鋭い眼光で私を睨み始めた。

あぁ〜なんだろう・・。
戦後このおじいさんは日本に何か悪いことでもされたのだろうか・・。
私をじーっと睨んでいたおじいさんのその険しい顔は
次の瞬間、急に笑顔に変わり、イマ、ドコイク?と言った。

え??また日本語を話す老人だ!!しかも笑顔だ!!

私が豊田村に行きますというと、それを聞きつけた
一人目の遠い目をしたおばぁさんは、急にエンジンがかかったように
「トヨタムラ、トオイよ!トオイよ!」とすごい勢いで忠告してきた。

豊田村はどうやら遠いらしい。

この2人の他にいた3人目のおばぁさんは
私が豊田村に行くと聞くなり、ゆっくり立ち上がり、
歩き出したかと思うと、何故か隣の家の中に消えた。

おじいさんは最初の険しい顔が嘘かのように
笑顔で私が聞いてもないことを、どんどん話し始めた。
日本語と中国語のちゃんぼんで話してきて
私が理解しているか、していないのかはお構いなしである。
私も訳が分からないのに、「あー」とか「うん」
とか適当に相槌をうったのが悪かった。
おじいさんのマシンガントークは止まらない。
車とじいさんは急には止まれないのである。

私が唯一分かったのは、おじいさんは昔シンガポールに行って
2年働いて台湾に帰ってきた。そしておじいさんの兄は
この近所に住んでおり金持ちだということだった。

おじいさんとたわいもない話をしている間も
遠くを見ているおばぁさんはトヨタムラ、トオイヨ!と
誰にいうでもなくつぶやき続けていた。
豊田村に何か見られたくない秘密でもあるのだろうか。

しばらくして、隣の家に消えた老人が
なにやら紙を一枚持って再びのそっと現れた。
その紙を特に表情を変えることなく私に手渡した。
なんだろうと思い見てみると、その紙には
多くの地名らしき文字が書かれており、最後が豊田となっている。

どうやらおばぁさんは、私が豊田村に行くと聞いて
豊田村に着くまでの、全てのバス停の名前を隣人に尋ねて
調べて紙に書いてくれていたのだ。

なんて親切なんだろう!
私が円広志ならこのおばぁさんをすぐさま
「隣の人間国宝さん」に認定していただろう!
(関西地方の人にしか分かりません)

驚いた事にこのおばぁさんも日本語を多少解すようで、
ココ、トヨタムラ、いち、にー、さん、しーと
豊田村までのバス停の数を数えはじめた。
バス停にいた3人の老人が全員ある程度日本語を喋れるなんて・・。
おばあさんが、5まで数えた頃、急にバスの警笛が聞こえ、
風邪をひいてマスクをしているという
軽食屋のおばさんがすっとんできて
バスが来たわよ!と私たちに知らせてくれた。

私が軽食屋のおばさんにさよならを言うと、
おばさんは私にサンドイッチとタピオカ入りミルクティーを
掴ませ持っていきなさい!と言った。
私は言われるがままにサンドイッチと
ミルクティーをもらって、お礼を言ってバスに乗った。

台湾人はなぜこんなにも親切なんだろうか?
私が日本人だからだろうか。
もし私が仮に中国人なら、おばさんは私にそこまでしただろうか。
私はきっとしていないんじゃないかと思う。

私は手元のミルクティーを飲みながら、
台湾人と日本人の間にある、特別な絆のようなものを
感じずにはいられなかった。

私と日本語を話す老人3人を乗せたバスは
田舎の町をずんずんとかけぬけた。
やがておばぁさん達は、おらの家はここだ!とどんどん降りて行き
最後は私と運転手二人になってしまった。
やがてバスは最終の光復に着き私はバスを乗り換え、
さらに30分程走り、ようやく豊田村に着いた。

豊田村は台湾の田舎町そのものだった。
飲食店とコンビニが数件ある程度であるでいたって静かだ。
私はバス停のすぐ近くのベトナム料理屋で昼食を食べ、
そこにバックパックを置かせてもらい、村を探索することにした。

私はまず、ガイドブックで見ていた鳥居を探すことにした。
調べた所この豊田村にかつて豊田神社という神社があり、
神社は現在、碧連寺という台湾風の寺になったが、
鳥居だけが今も残っているのである。

こんな奇妙な建造物、聞けばすぐ教えてくれるだろう、
そう思いこの辺りの住民に写真つきで聞いてみるが、
皆一様に首を横に振った。
なぜだろう。この村の地図にもきちんと記載されているというのに。
もしかしてここ数年のうちに取り壊されたとでもいうのだろうか?

私が地図通りに進むとやがて鳥居はその堂々たる姿を現した。

あった!私が鳥居を見つけ喜んでいると、鳥居の下を
私と同じ方向に歩いていたおじいさんがいた。

おじいさんは私に中国語で何か話しかけた。
私が中国語はあまり話せません、この鳥居を探していたのです
というと、おじいさんは、「日本人ですか?」と
今日会ったどの3人より流暢な日本語でそう言った。

私が、はいと答えるとおじいさんは、あぁそうですか、
日本人ですかと私を見て微笑み、ちょっと待ってと言い
肩にかけていたカバンをまさぐり始めた。
そしてカバンの奥から自分の身分証を取って私に見せた。

身分証によるとおじいさんは胡美雲さんといいアミ族の出身だという。
そして付け加えるように、これは本当は女の名前ですよ、
私は小さい頃、女のようによく泣きましたから
両親は私に女の名前をつけました、と少し恥ずかしそうに言った。
胡さんの眼鏡の奥にある優しい瞳が胡さんの性格を物語っている。

それにしても流暢な日本語である。私はどこで習ったか聞いてみた。
美雲さんは、ゆっくりと口を開きこう言った。
両親は、台湾で日本語教育を受けました。
両親は日本語しか話せません。両親は私と日本語で話しました。
だから私は日本語を話せます。

私は日本語を話せる人は学校で学んだのだろうと
ばかり思っていたので、そういう風に日本語を身に付けた人が
いたことに今更ながら少し驚いた。

学校では習わなかったのですか?
私がそう聞くと、私が生まれた頃に(民国30年)
日本はもういませんでしたと言った。

うん?少しおかしい。
民国とは、中華民国が成立した1912年を元年とする数え方で
今年(2011年)がちょうど民国100年である。
よって美雲さんは70歳、美雲さんが生まれたのは70年前のはずだ。
となると生まれたのは1941年で、まだ日本は敗戦の1945年を
迎えておらず、まだ台湾は日本の支配化のはずである。
私が生まれて(物心ついた時に)日本はもういなかったという意味だろうか。

美雲さんは、今晩あなたはどこに行きますか?と言った。
私は台北(たいぺい)に行きますと言った。
美雲さんは、日本語読みで台北(たいほく)ですか、
と言い少し残念そうな顔をした。
私を家に泊めてくれるつもりだったのだろうか。

私の家はここからずいぶんあります、
私はいつも歩きます。自転車や、なんですか、バイクは
小さい頃ありません。だから私は乗れません、歩きますと言った。

最後に鳥居と一緒に写真を撮ってもいいですか?
と言うと、私の?と少し驚いたようだったがすぐに許可してくれた。

私がレンズを向け、1、2、3!と言うと
美雲さんは、待って待って!と言い何をするんだろうと思っていると
右手を揚げ可愛らしくポーズした。

なんともチャーミングな美雲おじいちゃんだった。

美雲さんと別れ私はかつて豊田神社という神社があったとされる
神社跡に向かった。現在は碧連寺という台湾風のお寺になっているという。

むむ・・なんだこのデザインは。。
恐らく一番奥の二本の柱は鳥居の柱ではないだろうか、
そしてその鳥居の柱を生かして、なんとか寺のエントランスを
作ろうとがんばってみました!という感じである。
世界中の寺を数々見てきたが、こんな変なエントランスは初めてだ。

寺自体はやはり台湾風でそこに日本を感じることはできなかった。

しかし寺の内部には日本の忘れ形見がいくつかあった。
今の若い台湾人はこれが何か分かるのだろうか。

寺にあった石碑には開村三十周年と刻まれていた。
そして小さな字で昭和17年6月 長谷川 清とある。
長谷川 清とは昭和15年から4年間、
台湾18代総督を務めた人物である。
この石碑も戦後は粗末に扱われ倒されたりしたようだが
台湾の民主化が進み日本時代が再評価されるに従い
今の姿になったという。

日本時代、この寺を多くの開拓に励む日本人移民が
精神的拠り所としたのに対し、多くの台湾人は今まで聞いたこともない
海の外の神を拝むことを強要されたのである。

寺から一歩外に出るとそこには、のどかな景色が広がっていた。
日本人移民がやってきた頃は村中がこんな状態だったんだろうと
想像すると、日本人移民の苦労が目に浮かぶように分かった。

私は、さらに日本の名残を探すため、
寺の外にある雑草が生い茂った場所に入っていった。
石碑か何かはないのだろうか?
私は誰も見つけられなかった物を探していた。

しばらく雑草を踏み倒し奥に進んだ。

そして私はそこに日本の原風景を見つけた。
豊田村は日本人にとってどこか懐かしい静かな村だった。

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豊田村

http://www.erv-nsa.gov.tw/user/article.aspx?Lang=3&SNo=03000118
瑞穂のバス停から1時間弱(光復で乗り換え)
花蓮からは10km、列車はあるが本数は少ない。

7-こんにちはトイレ

私の乗った列車は太麻里を出発し、瑞穂を目指していた。

ここに紅葉温泉旅社という旅館があるのだ。
日本統治時代に開発されたこの温泉宿は、
当時、警察官の療養所として使われていたという。
古めかしいその建物の写真をガイドブックで見た瞬間、
私は旅情をかきたてられ、どうしてもここに行きたいと思った。

一番安い部屋はどうやら、500元(1250円)らしい。
ホームページからは分からなかったが
この値段からすればきっと相部屋だろう。
私はここで、台湾の日本語世代のおじいさんと相部屋になれば、
当事の話を聞くまたとないチャンスだとも考えていた。

車内で、台湾で最も有名な駅弁である池上弁当を食べていると
列車は、まもなくして目的地である瑞穂に着いた。

瑞穂は駅前ですらそれほど賑わってなかった。
いくつかの商店やコンビニが数件あるだけで、
それがそのまま街のメインストリートだ。

私は紅葉温泉への行き方を
路上でおしゃべりしていたおばさん達に聞いた。
おばさんは、確かバスが出ていたはずよと言い
ほら、あそこに学生達がいるでしょ!と近くのバス停を指さした。
そのバス停では確かに中学生くらいの子達が
皆同じジャージに身を包み、バスが来るのを待っていた。

どうやらバス停の向かいにある簡単な飲食店で
タピオカ入りミルクティーを飲みながら
バスを待つのが中学生達のやり方らしい。
私も彼らにならいタピオカ入りミルクティーを注文した。
味は少し薄くどこか素朴な味がした。
バスのチケットもここで買うことができた。

バスは定刻を少しまわってやってきた。
中学生に占拠されたバスの中はまさにカオスだった。

周りは全て青春真っ只中の中学生である。
車内では台湾の流行音楽なのかヒップホップ系の音楽が
これでもか!という爆音で流れている。
皆、誰に買ってもらったのか立派なスマートフォンを持ち、
画面上に指を滑らせてはメールをしたり、音楽を聴いたり、
友達同士でしゃべりあったりしている。
背に大きなバックパックを背負い、彼らより10歳近く年上の私は
一人明らかに浮いていた。

しばらくしてバスが止まったので前にいた少女に、
紅葉温泉はどこかな?と聞くと、ココよ!と教えてくれたので
私はバスを降りることにした。

しかし、降りてみたが、そこはただの住宅地だった。
硫黄の匂いもしなければ、温泉の気配は毛頭ない。
私が戸惑っているとバスは私を置いてさっさと出てしまった。
こりゃ〜困った。

同じ場所で降りた学生に紅葉温泉の場所を尋ねると彼はこう言った。
很远呢!(めっちゃ遠いよ!)
彼によると紅葉温泉までは歩いて、だいたい30分かかるらしい。
ガイドブックではバスを降りて徒歩10分のはずなのに・・・。
背中に何十キロの荷物を背負っての30分は拷問である!

しかし歩く以外に方法がないので
私は紅葉温泉があるという方向を目指して歩き始めた。
5分くらい歩いて家の軒先に椅子を並べ
晩御飯を食べている家族を見つけた。
なんとも南国らしい雰囲気である。
私が大きな声を出して「紅葉温泉はあっちですかー?」
と聞くとその家族は、そうよ!あっちよ!と口に
何か食べ物を入れ、もごもごしたまま教えてくれた。

さらに5分くらい歩いただろうか。
私の横に一台の原付がクラクションを鳴らして止まった。
なんだろう?と思ってみてみると、
そこには一人の男が立っていた。

少し警戒していた私に彼は、
紅葉温泉まで送っていくよ!と言い白い歯を見せた。
どうやらさっき私が道を聞いた家のおばさんが
息子に送ってやりなさいと言ったらしい。

どうして君はそんなに親切なの?
私が率直に思ったことを彼にそう聞くと、彼は
旅行客に親切にするのは当然だろ!と笑った。
彼は原付の後部座席に私を乗せ、
私がどこから来て、どうやってこの温泉を知ったのか、
など多くの質問をしてきた。

私が、かつて日本人が建てた建築物を見たくて来たというと、
彼は、そうなんだよ!よく知ってるね!
あの建物は日本人が建てたんだよ!と目を輝かせて話した。

十分くらい暗闇を原付のライトを頼りに走ると
やがて紅葉温泉が見えてきた。
彼は、楽しんできてね、と言い私は彼と握手して別れた。

私が彼の立場だったら、きっとそこまで
外国人に対し親切にできなかっただろう。
台湾人のホスピタリティーには毎回驚かされる。

夜の紅葉温泉は見事にライトアップされ美しかった。

日本統治時代の建物に少し手を加え使っているようだ。
確かに日本のどこか田舎の温泉のようである。

宿のフロントにいた女性は一見無愛想だが、
聞けばなんでも教えてくれた。
ツンデレというやつか。


違うか。


一番安い部屋は、やはり500元だった。
私は先に部屋を見せてもらうことにした。
フロントのお姉さんは、日本風の廊下をずんずん進む。

そして部屋の鍵を回し、ドアを開けた。
それは相部屋ではなく、一人部屋だった。

綺麗に掃除された一人部屋だ。
一人部屋で1250円?!私は即決した。

よく見てみると布団は毎回綺麗に洗っているようでは
なかったが、この値段なので仕方ないだろう。
道中トイレを我慢していた私は、
着いてさっそくトイレに向かった。

トイレの矢印のある方向に歩いてゆく。
そしてトイレを見つけた。


ん?・・・なんじゃこりゃ!!!!

もう最近では日本でもなかなかお目にかかれないトイレである。
中国のドアがないトイレを「ニーハオトイレ」と呼ぶらしいが、
だったらこれは「こんにちはトイレ」と言ったところか。

このトイレを知らない女性のために少し解説をいれよう。
男はこの少し小高くなったところに立ち、
壁に向かって小便をするのである。
もちろん先客がいたら、同じところに立つため、
先客の「ブツ」は見放題である。
まさに、こんにちは!という感じである。
上には温泉水が流れてくるパイプがあり、
そこに少し穴が開けられており、そこから温泉水が流れ、
小便を綺麗に排水口に流してくれるのだ!

しかもよく見てみると、カエルが忍びこんでいる。
旅館側のなかなか粋な演出である!

トイレですっきりした私は風呂に入ることにした。
しかし私には、一つ疑問があった。
漢民族は基本的に、親族や親しい人の前であろうと
人前で裸になるのを嫌う民族なのである。
そんな民族が公衆浴場で裸になって風呂に入るのだろうかと。
その疑問は風呂を見て解決した。

風呂はなんとその多くが個室だったのだ!
こうした個室の風呂が20個ぐらいあっただろうか。
しかも、私が幼少期を過ごした家にあったような
昭和レトロな風呂である!
ここに蛇口をひねって温泉水をいれること3分、
お湯はすぐに満タンになった。

ぬくぬくのお湯の中で私は台湾の中で
生き続けている日本を感じずにはいられなかった。

風呂が昭和レトロなら風呂上りの楽しみ方も昭和風であった。

台湾人もここで、コーヒー牛乳のようなものを
くいっと一杯やるのだろうか。

風呂をあがってしばらくごろごろしていたのだが、
特にすることもないので、私はテレビを見ることにした。
そして、台湾のTV番組を見てこれまた驚いた。
TVに「日本」がやたらと登場するのである。

戦後60年以上たった今も戦争中の出来事を扱った番組があり
そこでは「サヨンの鐘」についてのドキュメンタリーをしていた。
(サヨンの鐘については、ここでは詳しく触れない)

また、違う番組では日本の番組をそのまま台湾のTVで
流していたり、ニュースでは台湾のニュースの後に
日本のニュースの時間があったり、とにかく日本が
たびたび登場するのである。

日本のTVで台湾を扱うのは、旅行の番組かニュースくらいで
頻度も毎日ではないが、台湾ではこうして毎日、
日本の事が報じられているという事実に私は驚いた。

私はやがて寝るために電気を消した。
TVの明かりだけになった室内は寝るには丁度いい暗さだ。
60年以上前、ここに日本の警察官が泊まり私と同じように
「こんにちはトイレ」で小便をし、ここで寝たのだ。
彼らは異国の地で何を考え、どんな気持ちで
ここでの一夜を過ごしたのだろうか。
そう考えると、途方もなく不思議な気分になった。

私がふと目線をTVに向けるとTVでは
クリームシチューの上田が満面の笑みで笑っていた。

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紅葉温泉旅社

http://www.188hy.com/
花蓮縣萬榮鄉紅葉村188號